『流れ星が消えないうちに』橋本紡の感想

小説

『流れ星が消えないうちに』 橋本紡著/新潮社

・内容

高校時代から付き合っていた恋人・加地君が自分の知らない女の子と旅先の事故で死んでから、1年半。奈緒子は、加地の親友だった巧と新しい恋をし、ようやく「日常」を取り戻しつつあった。ただひとつ、玄関でしか眠れなくなってしまったことを除いては。
深い悲しみの後に訪れる静かな愛と赦しの物語。

大好きな人が死んじゃうよりも、世の中にはもっと悲しいことがある…。つらくって一睡も出来なくても、朝は来るし。涙が涸れるほど泣いてても、やっぱりお腹は空くもので。立ち直りたいなんて思ってなくても、時間はいつでも意地悪で、過ぎ去った日々を物語に変えてしまう。玄関でしか眠れないわたしと、おバカな僕と、優しすぎる彼を繋ぐ「死」という現実。深い慟哭の後に訪れる、静かな愛と赦しの物語。

・感想

恋人の死もしくは、大切な人の死というのは、氏の前作『半分の月がのぼる空』と同様の設定であり、テーマであるんですが、異なるのはその死が過去のものなのか未来のことなのかという点です。前作は死は約束された未来であったのに対し、本作は過去の、不変のものなのです。

勿論、彼の死の直後は大きな衝撃を受けていた奈緒子も、事故から1年半が過ぎ、新たな恋人をつくっています。これは再生と赦しの観点からすれば大きな一歩であることは言うまでもないことなのです。現代で彼の死を受け止め、一生独り身で通すなどということは、小説の中ならば私は好きなのですが、現実の世界で考えると、それは薦められない過去の良き慣習でしかないと言うほか無いでしょう。

よくある比喩ですが、人生を一歩一歩登っていく終わりのない階段に喩えるならば、奈緒子は間違いなく立ち止まっている状態です。しかも彼女の目の前にはとてつもなく大きな壁があることでしょう。しかし彼女は何の考えもなしに立ち止まっているわけではなく、人は自分の足で歩き続けなければいけないことも悟っているのです。自覚がありながら立ち止まっているのは、自分は時間が経過すればするほど、恋人・加地の記憶は薄れていくことが分かってしまっているからです。

もう一つ明らかなこととされてしまっているのは、それが必然の未来として存在させるしかないということです。時間が経てば経つほど、記憶が美化されてしまうのもどうしようもないことです。とすれば、前項の階段の比喩は不適当。さながら、それはエスカレーターです。乗り込めば、途中で乗り換えることも降りることも叶わず、進んで行くしかないのです。こう思うと、彼女はエスカレーターの前に立ち、手すりを掴みながらも(新しい恋人のこと)一歩を踏み出せていないのではないでしょうか。

彼が死んでしまった後、彼女は玄関でしか寝られなくなってしまいます。玄関は人が入ってくる場所、そして出ていく場所。留まる場所ではありません。通りすぎて行く場所であるのです。否、通りすぎなければいけない場所なのです。実際に失恋しただけ、恋人を永遠に失ったわけではない、妹の絵里は一晩で玄関を去りました。そして、復縁へと向かっています。

仲が悪くなってしまったのは、何も彼らだけではありません。奈緒子の両親もそうであり、父親は奈緒子の家に「家出」してきてしまっています。そこで、考えるよりもまず行動する事を提案され、実践します。これは確実に一歩を踏み出したことであるのですが、妹とは違い、復縁には向かっていません。それは、父が玄関で過ごしていない、つまりは新しい一歩を踏み出しても、立ち止まって自分を見ていないからではないでしょうか。

本作と前作の『半分の月がのぼる空』に共通しているのは、「格好悪さ」です。それらの行動は、率直な行動であり、真摯で素直な姿勢によるものですが、読者である私たちはそれを「格好悪い」と感じてしまいます。それはなぜでしょうか?私たちはどうしても客観的に、鳥瞰的に物語を見てしまっているからです。しかしその行動を行動者に共感して、主体的に見ることができたならば、すなわち「格好良い」に変貌するのです。この逆説が本作の魅力であり、著者の魅力であります。自分のためであり、自分が過ごしたい未来のためといえど、このような自分を犠牲にする行為は避けようとしてしまうからです。

北京オリンピックを観ていて感じたのは、やたらに「応援してくれた皆さんのためにも」を連呼する日本人選手の姿でした。それは本心でしょう。謙虚、実直を重んじてきた日本人ならではの発言といえるのかも知れません。でも、なぜこれまで練習を積み至難を乗り越えてきた自分のために勝ちたいと言わないのでしょうか。勝ったら、勝てて良かったと声を大にして叫ばないのでしょうか。本作のように自分を犠牲にして、共に過ごす人との未来を得る姿を決して「格好悪い」などとは言いません。言えません。そんなことも思いました。

もう一人の主人公である巧は、加地と奈緒子のそばにいて、傍観者であろうと思っています。恋人同士を観ているのは、羨ましかろうが妬ましかろうが、気持ちの良いものであることに違いはないからでしょう。そのとき既に、巧が奈緒子のことを好きだったのかもしれないがそう決めたのです。だが、加地の死でその決心は崩れ、自らは奈緒子の恋人となります。彼女が自分と加地を無意識にも比べてしまうのは理解しているし、彼女の中では、いまだに加地のほうに切ない思いが強いかも知れません。それでも彼は全てを飲み込んで、彼女と付き合おうとしているのです。

これは辛いでしょう。自分より加地に対してのほうが幸せそうに見えてしまうし、ときに疲れた表情でもしていようものなら、自分の無力さを感じてしまうかも知れないからです。

奈緒子が作中にて泣くこと、それは自らをそして現実を客観的に見れたということであると思います。彼を懐かしみ、形見の品となってしまった品々を見て扱うことで、彼を過去の物語にしたのです。いわば、エスカレーターに乗り始めたのです。

人は自分が物語の主人公ではなく、脇役や(正に)傍観者であると感じたとき、絶望してしまいます。何もかもが自分の思い通りにはならず、敵も多い。容易には何も変わらず、面倒な不利益なことばかりだと思う。本作は、「そうではない」などと上から語りかけたりはしません。それでも翌日の太陽を眩しく見せるだけの力はあります。

長々と書いてしまいました。私は変えようとしてきただろうかと、思わず自問したくなります。ぐだぐだと悪い方向にばかり考えてしまうところがあるからです。きっと現状維持がせいぜい。きっと将来このことを後悔するかもしれません。後悔とは言わないまでも、もっとこうやっておけば良かったと振り返ることもあるかも知れません。そしてこの文章を書いたことを懐かしむかも知れません。しかし考えてばかりではどうしようもありません。筆者もこれを憂えて何かさせようとしています。それが分かるから何かしてみようという気になってきます。その意味でも私は変わろうとしている本作の登場人物達に敬意さえ抱くのです。

そういや、私にはサッカー観戦なんていう趣味もあって、本作の中の巧と先輩が敗れた学校に巧の姉が応援している選手「カレン」って言う名前を見て少し嬉しくなりました。今、ジュビロにいる「カレン・ロバート」のことで、市立船橋高所属時には全国選手権で優勝し、同年代の日本代表に選出された選手です。実は凄い高校と戦っていたわけです。

・形式

小説、長篇、恋愛、青春

・あらすじ

忘れない、忘れられない。あの笑顔を。一緒に過ごした時間の輝きを。そして流れ星にかけた願いを。高校で出会った、加地君と巧君と奈緒子。けれど突然の事故が、恋人同士だった奈緒子と加地君を、永遠に引き離した。加地君の思い出を抱きしめて離さない奈緒子に、巧君はそっと手を差し伸べるが……。悲しみの果てで向かい合う心と心。せつなさあふれる、恋愛小説の新しい名作。

大切な誰かを失っても、それで残された人の人生まで終わってしまうわけではありません。残された人間は、どうしようもなく生きてしまう。いつか他の人を好きになることもあるでしょう。失ってしまったもののことを少しずつ忘れていきもするでしょう。そうして生を長らえるのは、はたして正しいことなのか――。自問しつつ、やはり人は生きていかねばなりません。たとえ何かを失っても、それを認めて乗り越えたところに新しい自分がいることを、この小説を読むことでちょっとでも信じてもらえたら嬉しいです。

・収録話数

・初出

・刊行情報

流れ星が消えないうちに(新潮社)

2006年2月20日

流れ星が消えないうちに(新潮文庫)

2008年6月30日

・受賞歴、ランキング

・読了日

・読了媒体

流れ星が消えないうちに(新潮社)

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