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吉増剛造詩集 /吉増剛造

・形式

 

 

・あらすじ

時代が最も大きく折れ曲がった60年代に登場し、「ぼくの眼は千の黒点に裂けてしまえ」と、鮮血のように熱く孤独な詩的シーンを疾走する詩人・吉増剛造。存在そのもの、行為そのもの、想いそのものが鮮烈な言語の体験となり、日本語のあらゆる要素を駆使することで、無限なる詩的宇宙を組み立てる。さまざまな都市や原野を移動し、ジャンルや境界を越える詩人の代表的な青春詩篇を集め、さらに写真作品やオブジェも紹介する。

 

 

・収録話数

Ⅰ 頭脳の塔

 

朝狂って

帰ろうよ

野良犬

草原へゆこう

渋谷で夜明けまで

リズムの魔に吹かれて

渚にて

狂人走れば不狂人も走る

魔の一千行

疾走詩篇

頭脳の塔

王國

 

Ⅱ 航海日誌

 

航海日誌 1970-1973

 

Ⅲ 草書で書かれた、川

 

アドレナリン

左様なら宇會利湖津軽よ

死馬が惑星を走る日は

サンタフェ鉄道Lemy駅

好摩、好摩

織姫

奮起せよ、アムンゼン

ロサンヘルス

 

解説・稲川方人

 回帰線の向こうに、吉増剛造の「青春」がある

エッセイ・石川九楊

 「!」もしくは割註

 

 年譜

 

 

・初出

 

 

・刊行情報

吉増剛造詩集(ハルキ文庫)

1999年10月18日

 

 

・読了日

2018年8月26日

 

 

・読了媒体

吉増剛造詩集(ハルキ文庫)

第三刷

 

 

・感想メモ

おそらく吉増剛造の詩は難解なのだと思う。難解だという言葉にすら「だと思う」と付け加えなければならなかったのは、僕があまりにも吉増剛造の詩を読めていないことが明らかだからだ。

 

 

僕が吉増剛造の詩に興味を持ったのは、詩人、思想家である吉本隆明の評価がきっかけだった。吉本は吉増を「日本でプロフェッショナルだと言える詩人が三人いる。それは田村隆一、谷川俊太郎、吉増剛造だ」とインタビューで評している。このうち田村隆一、谷川俊太郎両名の詩は読んだことがあったが、吉増の詩は読んだことがなかったため興味を引かれた。

 

 

だが読んだことはなくてもその「噂」は聞こえてきていた。いわく難解だと。テレビ番組で吉増の活動を特集したものを見かけたことがあった。チャンネルを適当に切り替えているときに見かけたので詳細はわからなかったが、そのときに見かけた吉増の詩は、まるでナルトのように渦巻き状に、紙(本)を飛び出して立体物に描か(書か)れていた。その展覧会だか朗読会だかにはそのようなオブジェとも言える作品がいくつかあるようだった。その様子を見て、僕の難解だというイメージは膨らみ一人歩きしていった。そのために僕は吉増剛造の詩を読むことのハードルをどんどん高くしていったような気がする。無意味なことだったが。

 

 

たまたま機会を得て吉増の詩に「挑戦」することになったわけだが、その結果は散々なものだった。この詩集に収められているものは、それほど長大な作品というわけでもないし、複雑かつ特殊な形態を持っているものでもない。いわゆる詩として読者が想定するような形で本の中に収まっている。しかしなにぶん歯が立たない。僕ごときが比べるわけではないが、僕と吉増の、持っている言葉の違いなのか、あるいは見えている景色の違いなのか(もちろん両方だろう)僕の想像や、連想、感覚の外を吉増の詩は通過していく。僕が感じるのは、エクスクラメーションマークの多用ゆえの勢いだとか疾走感ばかりだ。でも詩に含まれているのは勢いや疾走感だけではないのだろうなと漠然とした感想を抱く。しかしそれがなんなのかは僕には読み取れない。

 

 

どうなんだろうわからないわからないと読んでいく中で一つ心に残ったのは「疾走詩篇」だった。

 

ぼくの眼は千の黒点に裂けてしまえ
古代の彫刻家よ
魂の完全浮游の熱望する、この声の根源を保証せよ
ぼくの宇宙は命令形で武装した
この内面から湧きあがる声よ
枕言葉の無限に岩バシル連祷のように
梓弓、オシテ狂気を蒸発せしめる
無類の推力を神ナシに保証せよ
容器は花の群衆の
そのもっとも濡れた中点を愛しもしよう
ああ
眼はもともと数百億の眼に分裂して構成されていたのに
そしてそれぞれの見方があって
半数には闇が繁茂し、半数には女陰が繁茂し、半数には
 海が繁茂し、半数には死が繁茂し、すべての門に廃墟
 の光景が暗示され、すべての眼が一挙に叫びはじめる
 一瞬を我々は忘却した……

 

僕はこの詩を詳細に説明できるわけではない。それが失礼であるかないかは無視しても、僕はこの詩のここはこういう意味で、ここはこういう比喩なのだろうなどと自分の読みを、絶対に間違いのないものとして喧伝したいわけでもない。ただこの「ぼくの眼は千の黒点に裂けてしまえ」から始まる詩の中に、投げやりとも言えるような寂しさを感じたというだけだ。そして僕はそのような寂しさを前述の吉本隆明の詩を読んだときにも感じたことがあった。

 

全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でをはる ぼくはそれを考へてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに 世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ……

 

『転位のための十篇』の中の「廃人の歌」と名付けられた詩の一節。これら二つの詩には本書の解説にあるような「「言葉」と「世界」の確執」が含まれているような気がする。両者が共に20代でこれらの詩を書いたという共通点は、内面に秘めたままの「言葉(声、考へ)」と「世界(宇宙、全世界)」に立ち会うことは宿命的だという解説を強く裏付けるものかもしれない。

 

 

また、吉本が言及した詩人の田村隆一には『言葉のない世界』という詩集がある。「言葉」と「世界」が同時に詩集のタイトルに登場したのは、偶然ではないだろうが、吉増や吉本の詩と同様の意志を持っていたかなどわかるはずもない。そもそも吉増と吉本がどうかも怪しいのだ。僕が今回言及した詩人の、とくに初期の詩集を読もうとするとき、「言葉」と「世界」について意識的になる必要があるだろう。それは宿命の有無を確認する有意義な試みになるはずだ。(2018.08.26)

 

 

吉本の吉増についての文章を読み返してみたところ、「言葉の意味はゼロである」という方法様式だ、という説明があった。言葉の意味ではなく詩の価値を無限大にしたいという欲求があるらしい。それならば上の文章はまるで頓珍漢なことを書きなぐっていることになる。自分の常識や価値観ですべてを判断しようとしてはいけないと常日頃思っているのにもかかわらずそれをしてしまったようだ。(2018.08.27)