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変身(新潮文庫) /フランツ・カフカ


・形式

小説、中篇

 


・あらすじ

ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男グレーゴル・ザムザ。なぜ、こんな異常な事態になってしまったのか……。謎は究明されぬまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく。事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。

 


・収録話数

 


・初出

ディ・ヴァイセン・ブレッター、1915年10月号

 


・翻訳者

高橋義孝

 


・読了日

 

 


・読了媒体

変身(新潮文庫)

 


・感想メモ

朝グレゴール・ザムザが起きると彼は虫になっていた。そんな彼と、彼の家族の物語である。

 


摩訶不思議な小説だ。

 

 

なぜ最初虫になっても話せていた彼がいきなりしゃべることができなくなったのか?(他の人に理解されなくなったというべきか)

それは、他の人から「虫」(人間でないもの)だと認められてしまったからである。虫=しゃべれないもの、という図式が成り立っていたからこそ、彼はしゃべることができなくなったのだ。「虫は見た目が10割」といった具合だろうか。

 

 

なぜ妹は泣いていたのか?

兄の姿を見てしまったのか。兄がくびになりそうだからなのか。申し訳ないがよくわからなかった。

 

 

なぜ彼は先の未来に不安を持たず普段と同じように出かけようとしたのか?

これが一番の疑問である。誰しも朝起きて自分が虫になっていたとすれば、将来に絶望することだろう。だが、グレーゴルには苦悩や絶望といったものがほとんどない。自分を見つめる冷静さは当然持ち合わせているのだろうが、自分を虫として認めることができなかったのではないか。彼は理性(人間的な心)を失うことができなかったのだ。

 

 

なぜ家族は虫をグレーゴルだと認めることができたのか?

普通、家族の部屋から人間が消え巨大な虫がいたら、虫が人間を食べてしまったのではないか、と考えるのが自然だろう。だが皆、虫をグレーゴルだと認めている。「家族愛」というものだろうか。申し訳ないがよくわからない。(2回目・・・)

 

 

なぜ父親はグレーゴルに林檎を投げつけたのか?

単刀直入に言うと、彼を殺したかったのだ。夏場に蚊やハエが飛んでいて「邪魔」(本作でもそうなのだろう)だったならば殺そうとするだろう。それと一緒のことなのか。

 

 

ではなぜ林檎なのか?

もちろん本気で巨大な虫を殺そうとするならば、銃や剣が適当だろう。だが林檎ということは衝動的な犯行であることを表しているし、「息子なのだ」という理性があったのだろう。

 

 

なぜグレーゴルは天井に張り付くことを気に入ったのか?

理性が負け、虫に近づいたということか。それは、バイオリンを弾いている妹を拘束したくなったという点からもわかる。

 

 

なぜ最後に家族はグレーゴルが死んだことを喜んだのか?

まさに、家にいたシロアリが死に絶えたことのような喜びだったのだろう。最初は兄の世話を賢明にしていた妹も掃除すらまともにしなくなり、父にいたっては虫を見た瞬間から彼を人間としては見ていなかったのだから。(人間として見ていたのならば、ステッキでついて部屋に戻させるわけがない。)

 

 

なぜ女中を解雇しようと思ったのか?

それは、今後引っ越しするだろう小さな家には必要ないということもあるのだろうが、なにより、「過去」を早く忘れたいという思いに他ならない。

 

 

そもそも、なぜグレーゴルは死んだのか?

林檎を投げられた際に負った傷が原因になって死んだという説明が解説にあるが、私はそうとは思わない。虫となった彼を「人間」として見るべき家族が、ついには妹までも彼を虫としか見なさなくなったからこそ、彼は死んだのだ。

 

 

なぜ変身したのが虫(私が考えるにゴキブリ)なのか?

ゴキブリというものが、人間にとってもっとも忌み嫌うであろう生物だからだ。ゴキブリを好きだという人は、他の昆虫、生物が好きだという人より圧倒的に少ないだろう。だから、カフカはグレーゴルをゴキブリに変身させたのだ。

 


本作の衝撃的なその内容には似合わず、話はゆっくりと進行していく。終盤、グレーゴルが死に、家族が喜びのあまり会社を休み、列車に乗って散策に出かける場面などは未来への希望にあふれているように見える。その差は非常に滑稽である。

 


作品の根底に広がっているのは、「現実」というテーマだ。「現実」とは、自分の外見(容姿ではない)や性格を決めるのは自分ではなく、周囲、社会であるということだ。グレーゴルが虫と見なされた瞬間に虫になってしまったように、私たちも社会から1人の人間として認められなければ、「人間」として存在する事はできないのだ。私たちは、自由に髪形や服装を選んでいるように見えるが、実はそうではない。現実が「センスがいい」「かっこいい」「かわいい」などと、決めたものを【自分らしく】身につけているだけなのである。


性格も同様である。本来、人の性格とは、人によって違うということは自明の理である。だが現在日本人は「空気を読む」という風潮のもと、極端な(自由な)発言を社会に禁止されている。それは、人間関係の中である程度必要なものでもあるのだが、絶対に必要なものだとは思わない。そんな社会や現実によって私たちの【自分らしさ】が構築されているとはどんな皮肉だろう。カフカはそんな不条理を書きたかったのではないだろうか?


100ページほどの短編であるのだが、非常に多くの問いがつまっている。これが、名作といわれる所以なのか。(2008.02.13)

 

 

初めてカフカの「変身」を読んだときのことを今でもよく覚えている。子ども向けのおとぎ話ではなく大人向けの小説で、主人公は突然虫に変身してしまうという、それは不思議な読書体験だった。しかし、僕が不思議に感じたのは主人公が虫に変身してしまうということではなく、虫に対する非常な驚きを持たずに話が展開していくということだった。人間がある朝突然虫に変身するなどありえない。でもそのありえない話が淡々と続いていく。劇的で起伏のある展開を用意することなど簡単だったはずだ。カフカはそんなこと百も承知で淡々と静かな小説を書き、後世の読者は彼を手放しで称賛した。もちろん僕もそうだ。

 

 

二度の世界大戦、百年という時間、言語と国家を超越して、いまだに「現代的」と称される小説を書き上げたカフカに感嘆するほかない。図書館を造ることができるほどの論考と他分野も含めた研究、世界中の読者が続々と新説を唱えては日々更新されていく。カフカほど誤読をされた小説家もなかなかいないだろうが、そんな誤読をも抱きかかえてしまう包容力がカフカにはある。(2017.02.25)