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風の歌を聴け /村上春樹

・形式

小説、長篇

 


・あらすじ

「僕」が絶版になったままのデレク・ハートフィールドの最初の一冊を手に入れたのは中学3年生の夏休みであった。以来、「僕」は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。そしてじっと口を閉ざし、20代最後の年を迎えた。
東京の大学生だった1970年の夏、「僕」は港のある街に帰省し、一夏中かけて「ジェイズ・バー」で友人の「鼠」と取り憑かれたようにビールを飲み干した。
「僕」は、バーの洗面所に倒れていた女性を介抱し、家まで送り、しばらくしてたまたま入ったレコード屋で、店員の彼女に再会する。一方、鼠はある女性のことで悩んでいる様子だが、僕に相談しようとはしない。
小指のない女の子と「僕」は港の近くにあるレストランで食事をし、夕暮れの中を倉庫街に沿って歩いた。アパートについたとき、中絶したばかりであることを「僕」に告げた。
冬に街に帰ったとき、彼女はレコード屋を辞め、アパートも引き払っていた。
現在の「僕」は結婚し、東京で暮らしている。鼠はまだ小説を書き続けている。毎年クリスマスに彼の小説のコピーが「僕」のもとに送られる。

 


・収録話数

全40章、あとがき

 


・初出

群像、1979年6月号

 


・受賞歴、ランキング

第22回群像新人文学賞(群像、1979年6月号)

 

佐々木基一○

「この作品を入選にしたのは、第一にすらすら読めて、後味が爽やかだったからである。アメリカの現代小説にこういうふうなものがたくさんあると丸谷才一さんが云っていたが、わたしはほとんど読んでいない。ただ、ポップアートみたいな印象を受けた。しかもそれがたんに流行を追うというのでなく、かなり身についたものとしてでてきているように感じた。非常に軽い書き方だが、これはかなり意識的に作られた文体で、したがって、軽くて軽薄ならず、シャレていてキザならずといった作品になっているところがいいと思った。ポップアートを現代美術の一ジャンルとして認めるのと同様に、こういう文学にも存在権を認めていいだろうとわたしは思った。こういう作品はかなり手間ひまかけて作らないと、軽くて軽薄になるおそれがあることに、作者が留意してくれることを望む。」

 

佐多稲子◎

「『風の歌を聴け』を二度読んだ。はじめのとき、たのしかった、という読後感があり、どういうふうにたのしかったのかを、もいちどたしかめようとしてである。二度目のときも同じようにたのしかった。それなら説明はいらない、という感想になった。ここで聴いた風の音はたのしかった、といえばそれでいいのではなかろうか。若い日の一夏を定着させたこの作は、智的な抒情歌、というものだろう。作中の鼠は主人公の分身だ、と吉行さんが云われたが、私もそうおもう。同一人物という印象から脱け切ってはいない。が、観念の表白の手段としてのこの人物の設定は利いている。「ジェイズ・バー」のジェイ、その夏逢った女としての彼女、この二人は主人公とともに好もしく、しゃれた映画の中の人物を見るようだった。作者は、ためらいを見せつつ書出し、誇りで結んでいる。この作は選者たちの一致した意見で当選となった。」

 

島尾敏雄△

「ところで最後に村上春樹さんの『風の歌を聴け』が残ってしまったが、そのハイカラでスマートな軽さにまず私の肩の凝りのほぐれたことを言っておこう。しゃれたTシャツの略画まで挿入されていた。実は今何が書いてあったのか思い出せないのだが、筋の展開も登場人物の行動や会話もアメリカのどこかの町の出来事(否それを描いたような小説)のようであった。そこのところがちょっと気になったが、他の四人の選考委員がそろって入選に傾き、私もそのことに納得したのだった。」

 

丸谷才一◎

「村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来あがつたものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出さうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言つていいでせう。
 しかし、たとへばカート・ヴォネガットの小説は、共笑のすぐうしろに溢れるほどの悲しみがあつて、そのせいでの苦さが味を引き立ててゐるのですが、『風の歌を聴け』の味はもつとずつと単純です。たとへばディスク・ジョッキーの男の読みあげる病気の少女の手紙は、本来ならもつと前に出て来て、そして作者はかういふ悲惨な人間の条件ともつとまともに渡りあはなければならないはずですが、さういふ作業はこの新人の手に余ることでした。この挿話は今のところ、小説を何とか終らせるための仕掛けにとどまつてゐる。あるいは、せいぜい甘く言つても、作者が現実のなかのある局面にまつたく無知ではないことの證拠にとどまついてゐる。このへんの扱ひ方には何となく、日本的抒情とでも呼ぶのが正しいやうな趣があります。もちろんわれわれはそれを、この作者の個性のあらはれと取つても差支へないわけですけれど。そしてここのところをうまく伸してゆけば、この日本的抒情によつて塗られたアメリカふうの小説といふ性格は、やがてはこの作家の独創といふことになるかもしれません。
 とにかくなかなかの文筆で、殊に小説の流れがちつとも淀んでゐないところがすばらしい。二十九歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけてゐると思はれます。この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と推定される)文学趣味の変革のせいでせう。この作品が五人の選考委員全員によつて支持されたのも、興味深い現象でした。」

 

吉行淳之介◎

「『風の歌を聴け』は、あえて点数で言ってみれば、六十点の作品か八十五点(九十点といってもいい)の作品か、どうもよく分らないので再読した。その結果、これは良い作品だとおもったし、あえていえば近来の収穫である。これまでわが国の若者の文学では、「二十歳(とか、十七歳)の周囲」というような作品がたびたび書かれてきたが、そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり、主人公はそういう眼をすぐに外にむけてノンシャランな態度を取ってみせる。そこのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。しかし、ただ芸だけではなく、そこには作者の芯のある人間性も加わってきているようにおもえる。そこを私は評価する。「鼠」という少年は、結局は主人公(作者)の分身であろうが、ほぼ他人として書かれているところにも、その手腕が分る。一行一行に思いがこもり過ぎず、その替り数行読むと微妙なおもしろさがある。この人の危険な岐れ目は、その「芸」のほうにポイントが移行してしまうかどうかにある。」

 

 

第81回芥川龍之介賞候補(文藝春秋、1979年9月号)

 

井上靖

 

遠藤周作×

「憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説のなかからすべての意味をとり去る現在流行の手法がうまければうまいほど私には「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」という気持にならざるをえなかった。」


大江健三郎×

「今日のアメリカ小説をたくみ模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。」

 

開高健

 

瀧井孝作△

「このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、私は長い眼で見たいと思った。」

 

中村光夫

 

丹羽文雄

 

丸谷才一○

「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」

 

安岡章太郎


吉行淳之介×

「芥川賞というのは新人をもみくちゃにする賞で、それでもかまわないと送り出してもよいだけの力は、この作品にはない。この作品の持味は素材が十年間の醗酵の上に立っているところで、もう一作読まないと、心細い。」

 

第1回野間文芸新人賞候補(群像、1980年1月号)

 

秋山駿

 

上田三四二

 

大岡信

 

佐伯彰一

 

・読了日

2008年3月11日

2014年9月14日

2015年10月30日

 


・読了媒体

風の歌を聴け(講談社文庫)

 


・感想メモ

『風の歌を聴け』(村上春樹)のまとめ

『風の歌を聴け』の作中の時間経過についての覚書

 

 

僕がこの本を読んだのは2回目です。初めて読んだとき、私はこの作家をあまりよく知りませんでした。名前は知っていましたけど、逆に言えば名前といくつかの作品しか知らなかったんです。

 


兎にも角にも不思議な作品でした。不思議な作品というのは少々優しい言葉であったでしょうか。そのときは意味不明でした。作品には架空の作家の言葉が何カ所も引用されているし、数多くの章に分けられ、ところどころ場面が前後して理解しがたいところもある。正直、意味の分からないつまらない作品であったのかも知れません。

 


つまらないとは、そのままの意味でもあり、それ以外の意味でもあります。それは作品の独自性という点でです。

 


この本と前後して、最近の純文系の作家の作品を特に理由もなく読み続けたことがありました。いろんな話があったのは言うまでもないことですし、おもしろい作品も、つまらない作品も多々ありました。そこで感じたのは、どの作品も「似ている」と感じたことでした。理由を聞かれても答えることは出来ません。この作品は違いました。

 


そして今日、またこの本を読みました。そうしたら、本当におもしろかった。なぜでしょうか。彼の作品をいくつか読んでいたということがあってのことだったのでしょうか。

 

独自性と作品の印象


その独自性というのは、最初は、文学的であるが故に私が作品を遠く感じてしまっているということなのだと思っていました。ですが今読んでみると、作品が遠かったのではなくて、私が作品を遠ざけていたのだと分かります。

 

「時々ね、どうしても我慢できなくなることがあるんだ。自分が金持ちだってことにね。逃げだしたくなるんだよ。わかるかい?」

「わかるわけないさ。」と僕はあきれて言った。「でも逃げ出せばいい。本当にそう思うんならね。」

「・・・多分ね、それが一番いいと思うよ。」

 

これは、再生の物語なのでしょうか、進歩の物語なのでしょうか、ただの滞在の物語なのでしょうか。

 


私の場合、以前は滞在の物語でした。今は進歩の物語かと感じています。読む人のそのときの瞬間によって感じ方が変わる・・・。

 

理解すればいいのか?


しかし、意味がよくわからないというのは、依然私の周りをうろついております。「それでいいのだ。」という意見を耳にしました。


村上春樹の作品は確かに意味がよくわからない。本作(海辺のカフカだったと思います)にいたってはなおさらだ。でもそれでいいのだ。彼の作品は面白い。色んなことを考えられるからだ。それでいいではないか。


だいたいこんな感じでした。

 


後輩と、村上春樹の作品について話してみたとき、「確かに意味はわかんないですけど、でもおもしろいですよ」と、彼は言いました。(2008.10.28)

 

 

他の純文学作品から似た印象を受けたのはたまたまだとしか思えないけれど、この小説が「少し違う」というのはまさにそうかもしれない。

 

 

当時僕はこの小説の評価や感想をはっきりと持っていたわけではなかった。世の中の高評価を疑問視していた節があったのも事実だ。これがそんなに良い小説なのか?確かにちょっと違う感じはするけど、そんなに違うのか?と思っていた。

 

 

でもこの小説は実際他の小説とは違った。ブローティガンもヴォネガットもフィッツジェラルドも読んだことのなかった僕にとってこの小説の存在は大きかった。この小説を読んだ後、次々と村上春樹の小説を読んでいったのだから間違いない。

 

 

今ではこの小説をとても良い小説だと思っている。それはこの小説の寂しい雰囲気が読んだ後時間が経っても薄れていかないからだ。そういう小説はめったにない。(2017.11.24)